何をやりたいの?

無欲…とはまた違う。

子どもの頃から" I want to do~"の乏しい人だった。

そのことで随分親を困らせたようだ。今は自分でも困っている。

 

一度きりの人生、

自分の思うように生きたい!と考え始めたのはつい最近で、

今更になって、

「何をやりたいの?」と尋ねられると、言葉に詰まる。

 

前職の志望動機も、今振り返れば「ぼやっ」としたものだった。

書きたいテーマや貫きたい信念はほとんど無く(些末なものは有ったが)、

ただ目の前の人と、想像しうる範囲の人の為にベストを尽くす、

それだけだった。

「何を書きたいの?」と聞かれるのは辛いことだった。

サラリーマン的な働き方に拒否反応を示しながらも、

結局は極めてサラリーマン的な思考で働いてきた。

 

例えば「何を食べたいの?」と聞かれても、

お皿が出てくるのを待っていたことしか無いので困ってしまう。

そんな状態である。

 

それでも、ここ数日で長年の「やりたいことが無い」問題から

一歩抜け出すヒントのようなものは見つかったような気がしている。

 

少なくとも自問自答する場合に、

「何をやりたいの?」という聞き方がまずかったのではないか?と。

 

これまで、

何かを「やりたい!」と宣言する行為は「自己中心的ではないか」

という思いが先行して、気持ちが乗って来なかった。

(別に自己中でも良いと思うのだが、自分はどうしても受け入れられない)

利己的に生きようとすればするほど、それを良しとしない感情で

ブレーキをかけられてしまっていた。

 

そこで、自己実現の目標に「利他的」な要素を入れ込んではどうか、

と考えてみた。

例えば質問を大風呂敷な物に変えてみる。

「(自分は)何をやりたいの?」ではなく

「どんな社会に住みたいの?」という風に。

すると、案外色々なイメージが浮かんでくる。

互いの個性を認め合う社会、人同士で比べ合わずに済む社会、

思いやりと相互信頼に基づく社会…などなど。

 

社会を住み良いものにと思うことは利己的なことだが、

同時に周りの他者のことも考えるので利他的でもある。

ここで「思いやりと相互信頼に基づく社会」を目標に据えたとして、

今度は目標達成のために自分に何ができるかを考えることとなる。

その手段こそが「何をやりたいの?」の答えになるのでは?

というところまでは考えることができた。

 

もう一つのアプローチとして、自分が妙に共感した言葉や理念を

足がかりにしてはどうか、とも考えた。

自分の場合、最近だとこんな言葉に引っかかった。

何か新しいものを初めて見つけることではなく、

古いもの、古くから知られていたもの、

あるいは誰の目にもふれていたが見逃されていたものを

新しいもののように見出すことが、真に独創的なことである。

ベタだが、ニーチェの言葉である。その言葉を大切にしている

企業のことを書いた本で知った言葉なので、引用の引用の引用と言った具合。

それでも、自分がこれから文章を書いていく上で大切にしたい考えだと

自然に思うことができた。では、この言葉通りに働くためには

何をするべきか考える。

そのことが「何をやりたいの?」の答えとなり得るのではないか、と。

 

いやぁ…この思考訓練を本当は大学進学前とかにできていればなぁ。

若干どころでない後悔や恥ずかしさもありつつ、

物を始めるのに遅すぎるということは無いと信じて書いている。

「何をやりたいの?」に対して

今後も即答はできないかもしれないが、

本心に嘘をつかない回答をゆっくりでも導き出したいと思う。